パンデミックが宣言された、WHOのデトロス委員長の顔がひっきりなしに放映された、エチオピア人だという情けない丸顔のおじさんだ、トランプ大統領がデトロスは中国の手先だと猛烈に攻撃したよ。日本の立役者は西村さん、経済再生担当大臣という部署でスタッフが50人、各省の精鋭だか寄せ集めだかさ。厚労相でないのが不思議だったがマスクをしていて似た顔なので区別がつかない。安倍さんが任命したのだから何かと都合のいい人なんだろう。首相が取り決めと違う内容の発言をしてしまってあわてて言い訳したり、翻弄されている感じで気の毒になることもあったよ。

 たいした用事ではなかったが、まあ、おあがりなさいと居間に通された
これは顔のように見えますね女の人だな、正面に置いてあるタンスにしみがついていたんだ、つい気軽に言ってしまった。当主は少し表情を動かしたがにこやかに指でさわった。
「これは祖母の嫁入り道具です」
 嫁入り、江戸時代まで既婚の夫人は眉を抜き歯を黒く染め奥方・ご内室などと呼んだ。今でも相手の女性を名前で呼ぶことはしない、良子ですと紹介されても「良子さん…」などと言ったら追い出されるね、まず奥さんと呼ぶのか。自分の妻をうちの嫁などというのは嫌な感じだ、うちの婿などと言ったらトゲがあるだろう。パートナーなんて言えば家庭内別居かと思われるから、妻と夫かな、女房と亭主、かかあと宿六、落語家がワコというのは響きがいいね。旦那とか主人とか言うと家父長制を感じるからご免こうむりたい。
 じっと見ているうちにタンスのしみはいよいよ人の顔に見えてくる。能面は上下斜めで表情が変わるように作ってあるそうだね。もちろん物語があるから喜怒哀楽を自然に移すようにできているのさ。このタンスにも物語があるだろう、この一家の出来事をずっと見てきたのだから染み付いたものがあるだろう、しみは表情が変わるようだ。
「親父は軍人だったから気が短い、お袋は末っ子だからわがままだ、ケンカの絶え間がありませんでした。ある晩も派手にとっくみあって祖母をつきとばした。打ち所が悪くてね…その時のしみですよ」
「亡くなったのですか」
「額が裂けて目がつぶれて見るも怖ろしい顔になり…そんなことでは天罰をこうむるよと叫んだのが最後の言葉で」
 これは私の想像したことで実際に起きたことではないよ、用事がすむと当主は愛想よくおくりだしてくれた。けれど思ったよ、私の帰った後に仏壇に線香を焚いたかもしれないって、タンスのしみがみるみる形を変えて安達が原の老婆の顔になってきた、これも根も葉もない空想さ。そういえばもうすぐお彼岸だったね。

 キブシの枝先が垂れている、木々はまだ新芽を覗かせているだけです。柿の木なんか枯れたとみせかけるほど身を縮めているのにね。しかし海の色は春、波がトロリとしてきました。アジやイワシの輝く背が映っているのでしょう。魚屋の店先でまず春を感じるのはいささか生臭いかな。

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